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『取手の歴史Vol.2編』-「支社・タウン情報」

2022年11月4日

当ブログにおいて注目を集めつつある「グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報」ですが、今回からは、一度ご紹介した地域を「より深堀りするため」に「取手の歴史Vol.2編」と題して、前回は網羅(もうら)できなかった「取手市の歴史に関する話題」をお送りしたいと思います。

前回の内容を、より保管する形ではじまった「Vol.2」ですので、内容をすでに忘れてしまった方も多いでしょうから、まずは「取手の歴史のおさらい」からスタートです!

 

■まずは「取手市の歴史」を振り返ってみよう!

 

 

まずは前回のおさらいからとなりますが、この「取手市」のあたりに徐々に人々が定着していったのは「安土桃山時代」と言われています。

そんな「戦国時代」の真っ只中において、戦(いくさ)に使用される「砦(とりで)」が建設されるようになった所で、この地が「とりで」と呼ばれるようになっていきました。

 

と、前回は解説していましたが、実はそれよりもはるか昔、となる「平安時代」には、すでに「取手市周辺の地域の名前」が史料などに記載されていることから、この命名には「別の説」の可能性も出てきているそうです。

(これらの異説については、後述のセクションでもご紹介します)

 

そして、多くの人がごぞんじの通り、日本はかの「徳川家康」によって、江戸幕府を中心とした「幕藩体制」に入ることとなりますが、この頃の「取手」は、豊かな「利根川」の流れを利用した「舟運」と「水戸街道」の存在により隆盛を極めており、平和な日々を謳歌(おうか)していた、と考えられているそうです。

そんな穏やかな江戸時代を経て、国内が一気に騒がしくなっていった幕末、そして明治に至る間に、現在ではその名を地名などに残していない「新治県(にいはりけん)」と「印旛県(いんばけん)」というふたつの県にまたがっていた「取手」は、有名な「廃藩置県(はいはんちけん)」からわずか2年後の1873年(明治6年)に、一部が「千葉県」に属す形になります。

 

ただ、それからまた2年後の1875年(明治8年)には、現在と同様に「茨城県」へと移り変わることとなり、より現在の「取手」へと近づいていくわけです。(この移動は、上記の「新治県」が廃止されたことによるもの)

その後、1889年(明治22年)には、同じ「北相馬郡」の「台宿村」を合併する形で「初代・取手町」が成立することとなります。

 

ここまでが前回のおさらいとなりますが、もう一度読み返してみたい!と思った方のために、前回の記事へのリンクをご用意しました。

→こちらの記事も合わせてご覧ください。

 

さて、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■本当は違っていた?諸説ある「取手の名前の由来」異説とは?

 

 

続くセクションでは、先程のお約束の通り「取手の名前の由来の異説」をいくつかご紹介していこうと思います。

 

まずは「最も驚くべき内容の説」から解説していくと、元々の説では、この地に「砦」を築いたのは「大鹿太郎左衛門」という戦国時代の武将(築いたのは「大鹿城」という城だったとも言われています)とされていますが、実はそれ以前に、かの歴史の有名人である「平将門(たいらのまさかど)」が「城堡(じょうほう)=砦」を築いたことに由来する、というものです。

この説にはさらに続きがあり、将門がその猛威をふるった10世紀ごろ以降、この地は「相馬氏」という大名によって支配されていたことがわかっており、その領地は「稲村、大鹿」など周辺地域にも及ぶものであった、と言われているそうです。

 

ただ、ここで気づいた方もいらっしゃるかと思いますが、先程の領地には「大鹿」という、元々の説で登場した「大鹿太郎左衛門」を彷彿(ほうふつ)とさせる地名が含まれていることから、後にこの一体の支配権は「大鹿氏」に移行した、と考えることもできるわけです

仮に、この説がすべて「真実」だったと仮定するなら、10世紀頃から16世紀末頃まで、この「取手」は「武士・大名の支配地域」であり、どんなに平和であっても、いつ何時「戦地」となるかわからないぐらいの場所であった、ということになります。

 

このように、はるかなる歴史のロマンには心が踊りますが、残念ながら「生きるか死ぬかの殺伐とした所だった」というのであれば、現在の「取手」もちょっとだけ見方が変わっちゃいますよね?

 

■隠された歴史?明治期に登場した「初代・取手町」を深堀り!

 

続いてのお話は、これもおさらいのセクションで登場した「初代・取手町」に関するお話をお送りしていきましょう。

 

前述した通り、1889年(明治22年)に、同じ「北相馬郡」の「台宿村」を合併する形で成立したのが、この「初代・取手町」ですが、まだまだ「北相馬郡」の周辺地域から編入したいと考えていた所は多かったようで、太平洋戦争後となる1947年(昭和22年)には「井野村」が新たに「取手町」への編入を果たしました。

この時は、まだまだ「もともと存在していた初代・取手町」に編入する、というものだったのですが、明治から続いていた「初代・取手町」は、その後1955年(昭和30年)に「稲戸井村・小文間村・寺原村・高井村」などの地域との「新設合併」が行われました。

この「新設合併」とは「新たに集まった複数の地域が合併する際に『以前のものを廃止し、新たにひとつの地域となる』」形で行われる合併のことであり、この場合は「集まった地域も含め、新たな『取手町』としてスタートする」ということに合意した、というのが真相となります。

 

さて、ここから現代までの流れの中には、まだまだいくつかのトピックがあるのですが、その後の経緯だけでなく解説も含め、次のセクションで行うことにしましょう。

 

■より詳しく?「2代目・取手町」から「取手市」への変遷とは?

 

さて、今回最後のセクションは、先程も前フリした通り「2代目取手町から現在の取手市への歩み」について解説していきますね。

 

センセーショナルな合併で、いわば鳴り物入りで登場する形となった「2代目・取手町」でしたが、その歴史が長くなることはありませんでした。

どういうことかというと、発足からちょうど15年後となる1970年(昭和45年)、満を持して現在へと連なる「取手市」への「市制施行」が実現することになったのです。

 

この「市制施行」ですが、同年には現在でも稼働を続けている「キリンビール取手工場」が操業開始したこともあり、地域をあげて「新しい市の歩み」をお祝いするムードだったそうです。

さらに同年には「取手市総合開発基本構想」が決定されたこともあり、徐々に私たちの知る「取手市」の形への「歩み」を加速させていくことになります。

 

その後、1981年、1985年、1995年と旧町名を廃止し、新しい町名への移行が随時行われていましたが、21世紀に入り2005年(平成17年)には、新たに「藤代町」が「北相馬郡」から編入、現在の所これが最新の「編入地域」となっています。

このように、一歩ずつ確信しながら変化を遂げてきた「取手市」。
今後も私たちの「地元」として、着実に進化していくことでしょう。

 

■まとめ:好調の「取手支社」で「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回は、数ある「グリーン警備保障の支社がある街」の中から、初となる「取手の歴史編Vol.2」をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

私たちグリーン警備保障では、今後も数多くの支社・営業所を幅広く展開していく予定ですが、その中でも「支社がある街に関する情報やエピソード」をより詳しく知り、支社だけでなく『グリーン警備保障』にとっての「地元のひとつ」として理解を深めていきたいと考えています。

地元に詳しい人材が、今後も数多く「グリーン警備保障の仕事」に携わり、さらに理解を深めていくことで、きっと私たちも、より一層「地元への愛着」を得るようになっていくでしょう。

こちらの記事を見て、地元「取手市」をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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