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『横浜の歴史編』-「支社・タウン情報」

2022年12月1日

「グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報」。今回は「横浜の歴史編」と題して、神奈川県の中枢としての長い歴史を持つ「横浜市の歴史に関する話題」をお送りしたいと思います。

というわけで、もはやお約束となった流れの中、今回もさっそく「横浜」に関する「歴史」についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■実は「旧石器時代の遺跡」が数多く残っている「横浜市」

 

さて、さっそく今回の「横浜・横浜市」に関する歴史の話を進めていこうと思うのですが、実はこの「横浜」には、私たち現生人類の先祖である「ヒト属の旧人」が闊歩(かっぽ)していた「旧石器時代」から、多くの人々の痕跡が残っているのだそうです。

しかし、残念なことに、これらの大部分は、大都市としての発展・開発によってダメージを受けているものも多く、その割合は約70%以上といわれています。

貴重な彼等の足跡が、今後消えてしまう可能性も高いという現状を憂う方も多いと思いますが、気を取り直して解説を続けると、この「横浜市内」では、これまでに25の「旧石器時代の遺跡」が見つかっているのだそうです。

 

時代は進み、メインの役割を「私たちと同じ現生人類」が務めるようになった「縄文時代」においても、海が近く食料の入手が容易であった「横浜市」には、数多くの人々が住み着いていたようで、同時代の遺跡模試内では数多く見つかっています。

その中には、前述の「海に近く食料入手が容易」という点を裏付ける、いわゆる「貝塚遺跡」が多く見つかっているため、やはり「横浜と海」の組み合わせはかなり長い歴史を持っている、ということにもなりますね。

 

もちろん、狩猟採集から稲作へと食料確保の方法が切り替わっていったとされている「弥生時代」の遺跡や、現在まで連なる「日本国」という概念が広く定着し始めた「古墳時代」の遺跡なども数多く出土しており、中でも「磯子区」にある「三殿台遺跡」は、珍しい「複合遺跡(※①)」となっています。

※①:「複合遺跡」とは「各時代の集落が同一箇所に営まれていたことが判明している遺跡」のこと

 

そして、この「横浜」において、一般の人々と、その上に立つ支配者階級との関係性が明確になった「古墳時代」にも、数多くの人々が住んでいたということは「現在に連なる社会的秩序が、早くから横浜の住民に根付いていた」ということにもつながっています。

おそらくは、当時の人々から見れば、かなり「高度な社会性」を有していたであろう「横浜や周辺地域の人々」は、その後の時代で、一躍「日本の中枢」としての役割に上り詰めることになります。

さて、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■一度は「国政の中心地」となった「鎌倉」からも多大な影響を受けている

 

 

これらの経緯は、日本史の授業で学んだ人が大半だと思われますが、前セクションで登場した「古墳時代」の後は、どのような時代が続いていったか、覚えている方も多いことでしょう。

正解は「奈良時代〜平安時代〜鎌倉時代」という流れなのですが、この辺りから「どのような地域・勢力が、日本国内でトップに立っているか?」によって「時代の名称」も変わっていきますが、これまたごぞんじの通り、こちらの「鎌倉時代」は、日本のトップを「横浜」にも近い「鎌倉」が務めることになった時代です。

そのため、当時のこの地域の生活様式や、どんな政治が行われていたかは、数多くの遺跡だけでなく、文献などの資料にも多く残されています。

当然、それらの文献・資料の信憑性(しんぴょうせい)は、非常に高いものであるため、この時代の人々の暮らしは、他の地域にと比べても「より深く理解しやすい」と言えるでしょう。

 

当たり前といえば当たり前な話ではありますが、このように非常に大きな影響力は、隣人とも言える距離感にある「横浜の人々・住民」にも多大な「爪痕」を残しているはずです。

現在では、「古都としての趣(おもむき)」を持つ、魅力あふれる観光地の印象が強い「鎌倉市」と、国内外で知名度が高く、国内でも有数の「商工業都市」としての顔を持つ「横浜市」という関係の「隣人同士」ですが、その文化のルーツはひょっとしたら「鎌倉発」なのかもしれませんね。

 

■今も続く「日米交流」の礎に「開港地」となった「横浜市」

 

 

さらに時代は下り、日本の政治・中枢の役割は「江戸・東京」へと移っていきましたが、再び「横浜の地」が脚光を浴びる時期は、これもまたごぞんじの方も多いように「江戸時代の後期」にあたる「1854年(安政元年)」のことでした。

これ以前から「供給基地としての役割」を求め、幕府に無許可のまま現在の「金沢区八景島」付近で、船のイカリを降ろし約2ヶ月もの間滞在を続けていた「黒船一行」により、日本とアメリカの2国は「日米和親条約」と「日米修好通商条約」を締結するに至りました。

その舞台となった当時の「横浜村」は、この「日米修好通商条約」において「開港地・神奈川」として定められており、ここから現在にも通じる「異国情緒あふれる港町・横浜」の歴史がスタートしたと言えます。

 

こうして、諸外国からの「通商」を受け入れる役目となった「横浜」には、外国人居留地が定められ、数多くの外国商館が立ち並ぶ街へと発展していきました。

ここでひとつエピソードをご紹介しておくと、当時幕府によって建てられた「運上所(現在で言う「税関」)」は「日本人居住地と外国人居留地の境界線」としての役割を持っており、外国人居留地を意味する「関内」という略称が定着し、そのまま地名になったのが、皆さんもごぞんじの「関内」の地名の由来です。

 

■「震災」と「戦争」を越えて「横浜市」は発展を続ける

 

さて、今回最後のセクションでは、その後日本における激動の時代を越えて「現在の横浜市」への発展の歩みをお届けしましょう。

 

前セクションでの開港以降、諸外国からの珍しいものや便利な品物が入ってくるようになった「横浜」では、貿易のために国内からもさまざまな品物が届けられるようになっていきます。

しかし、大正時代となる1923年(大正12年)には、現在でも悪名を轟かせる「関東大震災」の「震源」に近い位置にあった、ということで「横浜」一帯は甚大(じんだい)な被害を受けることになります。

この被害から6年後となる1929年(昭和4年)には、ほぼ以前の姿を取り戻すほど、精力的な復興を果たした「横浜市」でしたが、この時点からわずか16年後には、ごぞんじの方も多いであろう「1945年の横浜大空襲」によって「横浜市街地のおよそ46%」が、またもや壊滅的被害を受けることになってしまいます。

なおかつ、戦後の連合国側の「接収」により、この「横浜」の復興は、他のエリアに比べて大幅に遅れを取ってしまいましたが、このような不幸な事態も1951年(昭和26年)以降接収が解除されていったため、ようやく上向きになっていったそうです。

 

その後の「横浜市」の歩みは、皆さんもよく知っていることだろうと思いますが、今後もその歩み、すなわち発展の歴史は、とどまることなく続いていくでしょう。

私たちも、今後の「横浜市」の姿を楽しみにしつつ、今回はこの辺で「横浜の歴史編」を締めることにしましょうか。

 

■まとめ:「横浜支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回は「グリーン警備保障の支社がある街」の中から「横浜の歴史編」をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の「横浜支社」ももちろんのこと、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く「警備の仕事」を取り扱っておりますが、まだまだ「支社がある街に関する情報やエピソード」については勉強中です。

より「地域」に密着した形で、メインとなる「交通誘導警備」を数多く任せていただけるような「信頼」を得るためにも、「支社のある街」に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元「横浜市」をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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