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『池袋の歴史編』-「支社・タウン情報」

2023年9月4日

もうすっかりおなじみとなった、グリーン警備保障の支社・営業所がある街のタウン情報、今回は池袋の歴史編と題して、日本屈指の繁華街との呼び声も高い池袋の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。

今回も、3大副都心のひとつであり、世界第3位の利用者数を誇るターミナル駅を有する街である池袋の歴史についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■池袋の地名の由来となった「現存しない袋池」とは?

 

 

今回も、いつものパターン通り『池袋』の地名の由来からご紹介していきましょう。

 

実はこの「池袋」という地名ですが、すでにお察しの方も多いように「近い名前を持つ池」が存在していたことが由来として伝わっているのだそうです。

そう聞くと、きっと池袋に足を運ぶ機会の多い方の中には「由来の池が残っているのでは?」なんて淡い期待をしている方もいらっしゃるかもしれませんが、そこは現在の大都会池袋ですので、近代に至る歴史の中で由来となった「袋池」はすでに消滅してしまっています。

 

ただ、この「袋池」の跡地としては、現在西口にそびえる「ホテルメトロポリタン」一帯だとされており、1970年代までは「空池(からいけ)」の状態で残っていたのだそうです。

また、由来となった「袋池」を偲んで、隣接地となる建物東側には「元池袋史跡公園」が開設されており、非常に小さい公園ながらも夜間はライトアップされるなど、さすが大都市「池袋」の由来になった地だけに、地域の方々からも愛されているのだなあと感慨にふける方もいらっしゃることでしょう。

 

がしかし、現在の「池袋」とされている地域ですが、古くは「雑司ヶ谷村」という地域として扱われていたのだそうで、この「池袋」という地名が冠された「池袋本村」からはかなり距離がある地域なのだそうです。

そう考えると、本当にこの「袋池」が、地名の由来になっているかどうかの信憑性に疑問がつくことにもなり得るでしょう。

旧史跡を偲ぶ公園を敷設するなど、地元でもかなり信用されている感のある「袋池→池袋」という地名の由来、果たしてその真相はいかに?

では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■すでに中世の頃から「池袋」として立場を確立していた

 

 

前セクションの終わりでも軽く触れましたが「池袋本村」という地名や表現が現在に残っていることからも分かる通り、この「池袋」という地名や地域は、かなり古い時期から存在・認識されたことがわかっているのだそうです。

文献や古文書などでは、1559年とされる資料への記載があることから、中世、戦国時代にはすでに「池袋」という地名が確立されており、前述の「雑司ヶ谷」をはじめ「巣鴨や長崎」など、豊島区の各地もすでに当時から存在していた、と考えられています。

 

また、当時の日本では、現代の「ターミナル駅」と同様に「多くの〇〇が集まる場所、様子」を「〇〇袋」として表現することも多かったことから、おそらくは「数多くの池が集まっている所」を指して「池袋」という地名が確立され、前述の「袋池」は、そのひとつではなかったのか?という仮説も浮かんできますね。

現在の池袋の様子にも通ずるこの仮説、もう少し色々な所で提唱されているならまだ信憑性もあるのですが、本当の所はどうなんでしょうか?興味は尽きませんね。

 

■一時期は「文教地区」だった?こともある「池袋」の紆余曲折

 

 

 

続いては、世界でも屈指の繁華街として知られる「池袋」の過去における「意外な一面」について解説していきましょう。

 

実は、大正時代から昭和初期にかけて、この地は当時の「東京市北部」の中でも「巣鴨や大塚」と並ぶほど栄えていた地域であり、現在の「都電荒川線(当時は「王子電気軌道」)」や「山手線」が交差する地であった「大塚」などからの交通の便も良かったため、数多くの「学校施設」が集まっていたのだそうです。

そのため、現在のイメージとは若干異なり、セクションタイトルにもあるように「文教地区(※注1)」だった時期もあったのだそうで、かつては学生が多く集まる「学生街」としての顔も持っていました。

※注1:文教地区とは、学校だけでなく図書館や博物館など、教育に関する施設が多く集まる地域を指す。23区内ではその名が表しているように「文京区」などがその役割を担っている。

 

とはいえ、あくまで池袋が文教地区だった時期はこの一時期のみに限られており、当時まだ重要な地域として栄えていなかった池袋は、すでに広く繁華街として知られていた「巣鴨や神田」へと連なる地域であったため、該当地域への路線乗り入れを画策していた鉄道会社によって「仮のターミナル駅」として利用された部分もあったのだとか。

しかし、各鉄道会社が、さまざまな理由により最終的に「巣鴨や神田」への延伸を断念したことによって、池袋は今日の姿への発展の契機を得ることになったのだそうです。

 

次のセクションでは、若干時系列をさかのぼる形で、当時の農村状態から現在の姿へと発展した経緯や理由について解説していきましょう。

 

■農村状態から、世界でも屈指の繁華街に発展した理由とは?

 

明治や大正時代における池袋の地は、現在のイメージとは程遠く、広大な農地を持つ農村であり、江戸時代までさかのぼると、当時世界最大の都市であった江戸への「農作物の一大供給地」としての一時代を築いていたそうです。

このような、広大な農村であった池袋ですが、今日至る発展のきっかけとなった要因としては、

・早い時期からさまざまな鉄道路線が乗り入れた

・鉄道用地、また住宅用地に転用できる耕作地帯が数多くあった

・すでに繁華街として栄え始めていた地域へと連なる地域であった

という環境を備えていたことが挙げられるでしょう。

 

また、戦前における発展によって「人が多く集まる地域」としての質が確立されていたことも関係し、後に繁華街として発展した他の地域と同様に、戦後まもなくは数多くの「闇市(※注2)」が集まる地域として広くその名を知らしめる様になっていきました。

※注2:闇市とは、終戦間もない時期、多くの復員や外地からの引き揚げなどによって政府の配給物資や制度が底をついたこともあり、配給以外に食料や物資を販売、取引していた市場を指す。

このような戦後の混乱の中、当時の「国鉄(現在のJR)」による駅整備に出資することで、民間企業の商業施設を受け入れる「民衆駅(現在の「駅ビル開発」のはしり)」という独特の運営手法によって、爆発的な発展を遂げることになります。

 

また、1980年代には、駅から近い東池袋に、池袋の象徴的な建物とも言える「サンシャインシティ」が開業するなど、その発展の勢いは留まることを知らないかのように続いていきました。

現在では、小説やドラマなど数多くの作品に登場し、一時期は「サブカルチャーの街」としても人気を博した池袋ですが、不動産業界による「住みたい街ランキング」などでも上位につけるなど「人が集まる街」から「人が住む街」への転換も期待されているようですので、今後も目が離せませんね。

 

■まとめ:「池袋営業所」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回はグリーン警備保障の支社・営業所がある街の中から、意外と知らなかった事実も数多い池袋の歴史編をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

より地域に密着した形で、メインとなる交通誘導警備を数多く任せていただけるような信頼を得るために、これからも支社・営業所のある街に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元池袋をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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街中での歩⾏者や⾞に対しての安全でスムーズな案内・誘導業務です。

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