『杉並の歴史編』-「支社・タウン情報」
2023年9月4日
もうすっかりおなじみとなった、グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報、今回は杉並の歴史編と題して、意外にも多摩地域に属していた過去を持つ杉並・杉並区の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。
今回も、東京23区の中で屈指の環境の良さを持つ杉並の歴史についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!
では、さっそく最初のセクションから!
■実は「かつての境界線」だった?意外な地名の由来
今回も、冒頭からもはやおなじみとなった感のある「地名の由来」をご紹介していこうと思いますが、この杉並の場合「諸説あり」ではなく「出自が明確な由来」が存在するようです。
学生時代の歴史の教科書などで「律令制度」という言葉を耳にした方も多いと思いますが、その始まりはなんと、奈良・平安時代までさかのぼるほど古いものであり、関東をはじめ日本の地名の多くがその影響を現代に伝えています。
しかし、この杉並の場合、地名が付いたのは明治時代と比較的遅く、それ以前は「武蔵国多摩郡」の一地域に過ぎませんでした。(この点については後述します)
ただ、地名の由来となった事柄自体は「江戸時代」であり、当時の成宗村・田端村の両村において、領主を勤めていた岡部氏が領地の境界線として、青梅街道沿いに「杉並木」を設置したことに由来しています。
後の区名になるほどの杉並木ですから、一部だけでも現存しているのでは?と考えた方もいらっしゃるでしょうが、なんとこの杉並木は江戸時代の間になくなってしまったそうで、なんとも儚い話ではありますね。
しかし、この杉並木に由来する「杉並」という地名は、明治に入り村名として採用され、それ以降は町名→区名(現在)という流れで今に至ります。
では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。
■元々は全域が「武蔵国多摩郡」に属していました
さて、前セクションでもご紹介した通り、杉並区は元々「武蔵国多摩郡」に属していたのですが、現在の地域感覚に慣れている私たちからすると驚くべきことに、当時の「江戸」という地域の範囲には含まれていなかったのだそうです。
それどころか、明治のはじめにこのエリアが「東京府」に属するようになって以降、一度は「神奈川県」へと移管されていた、という驚きの過去も存在します。
どういうことかと言うと、以前「町田支社」の回でもご紹介しましたが、この「武蔵国多摩郡」は、東京府へと編入された翌年(旧暦の場合)、1872年(明治5年)に一度、神奈川県へと移管されることになったのです。
この移管の理由に関しては諸説ありますが、
・当時水源としていた地域が東京府と多摩郡で異なっており、それを理由に神奈川県側から移管要請があったという説
・当時の多摩郡では、政府に対抗する「自由民権運動」が非常に盛んであったため、面倒になることを恐れて神奈川県に譲渡した、という少々きな臭い説
なども存在しています。
しかし、僅かな期間に東京から神奈川へと移管された地域、現在の杉並区や中野区にあたる地域(およそ32村)側は、積極的に「東京に戻る運動」を展開して抵抗したため、同年の9月(旧暦では8月)に再度東京府へと編入することになりました。
ちなみに、この時は見送られましたが、同じ多摩郡に属する「町田」も同様に行った神奈川県に編入され、後年に東京への復帰を果たしており、揶揄されるような「神奈川県町田市」に非常に近い(当時は市政ではない)状況を生む原因となっています。
1872年のたった1年間で、武蔵国多摩郡→東京府→神奈川県→再度東京府という目まぐるしい移管を経験した杉並ですが、前述したように「杉並」という地名が付いたのはこれ以降のことであり、1889年(明治22年)に当時の東多摩郡の一部として「杉並村」が発足したのだそうです。
■実は数少ない「同名駅も同町名もない地域」なのです
前セクションでの紆余曲折を経験したことも関係しているかも知れませんが、この「杉並」は現在の23区では数少ない「同名駅や同町名が存在しない地域」となっています。
要は「杉並駅」や「東京都杉並区杉並」という住所が存在しない、ということになるのですが、他には郡名から区名へと切り替わった「豊島区」や「葛飾区」なども同じく、同名駅や同町名が存在していません
なぜそうなったのか?の理由としては、都内を走る鉄道の多くが明治後期~昭和初期に発足しており、地名となって日が浅い「杉並」を代表的に名乗る地域がなかったことや、市制・町村制への移行時期において、当時の「杉並村・杉並町」に含まれていた範囲が広大であり、駅名や町名として使用できなかったことが考えられます。
また、当時は前述の東京府から「東京市」への移行時期でもあり、この東京市における特別区はわずか15区から後に35区へと変更されているため(この時期に「東京市杉並区」として発足、後に「東京都杉並区」へと移行)、東京そのものが目まぐるしく変わっていった時期であったことも遠因のひとつに挙げられるでしょう。
ちなみに、早い段階から区名となっていた杉並ですが、自動車のナンバープレートが「杉並」となったのはつい最近と言ってもいい2014年(平成26年)のことであり、それ以前は「練馬」ナンバーを使用せざるを得なかったのだそうで、長く地元に住んでいる方の中には、この「練馬」ナンバー時代を経験された方も多いかも知れませんね。
■23区でも優れた環境を備えた「閑静な住宅街」
さて、今回最後のセクションでは、さまざまな紆余曲折のあった「杉並」の現在の姿である「閑静な住宅街」について、さらなる考察・解説を進めていきましょう。
実は、現在の杉並区における「閑静な住宅街」というイメージは、当タウン情報内でも何度か登場している「関東大震災」が遠因のひとつになっているのでは?と言われています。
当時、震災によって住む所を失ったのは、一般庶民だけでなく、多くの著名人や文化人とされる人々も同様でした。
安心して生活ができる住居の他にも、自らの活動や研究が進められる環境を失った彼らは、その活路を広大な杉並区に求め、移り住むようになったのだそうです。
当然、移り住んだ人々は、できる限り以前住んでいた環境よりも、この杉並での環境を良いものにしたいと考えたでしょうし、多くの人が四六時中、ひっきりなしに訪れるような「活気のあり過ぎる地域」にはしたくない、と願ったのではないでしょうか?
もちろん、それだけが現在の「閑静な住宅街」へとつながっているわけではありませんが、当時から現在へ続く住民心理を考えると、あながち間違った考えにも思えないのです。
おそらく、この他にも「杉並区が閑静な住宅街として栄えるようになった原因」はいくつもあるでしょうが、震災による被害の記憶を癒やし、明日への意欲を取り戻せる当時の環境づくりが、現在までその意志を残して、いまだに続いているという話を聞けば、妙にしっくり来る方もきっと多いはずです。
■まとめ:「杉並支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!
さて、今回はグリーン警備保障の支社がある街の中から、意外な過去を数多く持つ杉並の歴史編をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?
より地域に密着した形で、メインとなる交通誘導警備を数多く任せていただけるような信頼を得るために、これからも支社・営業所のある街に関する情報発信を進めていきたいと思っています。
こちらの記事を見て、地元杉並をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?