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『江東の歴史編』-「支社・タウン情報」

2022年8月2日

早くも当ブログにおいて定着しつつある、グリーン警備保障の「支社・タウン情報」ですが、今回は「江東の歴史編」と題して、東京23区の中でも「若干地味」な印象のある「江東区の歴史編」をお送りしたいと思います。

というわけで、今回もさっそく「江東」に関する「歴史」についてバッチリ掘り下げていきますので、しっかりついてきてくださいね?

では、さっそく最初のセクションから!

 

■元々は「海」だった? 江戸時代に埋め立てがはじまった「江東区」

さて、さっそく今回の「江東・江東区」に関する歴史の話を進めていこうと思うのですが、まずは当タウン情報でおなじみとなった「江東の名前の由来」から紐解いていきましょうか。

 

この名称が「現在のこの地を表す意味」で、使われるようになったのは、実は比較的新しく、戦後まっただ中となる1947年(昭和22年)のことでした。

しかし、古くは「江戸時代」から、同エリアにある「深川地域」や「隅田川東部」などを指す意味で「江東」という名称が使われており、同時代には、すでに「大部分が海だった」この地域の「埋め立て」がスタートしていたと言います。

 

では、なぜこの地域が「埋め立て」られるようになったのか?

その理由は「新田開発」が主な目的だったそうです。

やはり「新田」というからには、当時まだまだ「貨幣的」な扱いを受けていた「コメ」を栽培する「田んぼ」を増やすためだったのか?と考える人も多いでしょうが、基本的に「新田開発」は「田や畑などの農地を増やすための施策」であるため、必ずしも「田んぼ」である必要はなかったと言います。

 

そして、この「江東」の地域が、現在の「東京下町」へと変貌していくキッカケとなった「ある事件」以降は、寺社や武家の屋敷などが一挙に移動してくることになったそうです。

ちょっと含みのある「ある事件」という言葉ですが、歴史に詳しい方であればおそらくごぞんじであろうと思われる、江戸初期1957年の「明暦の大火(めいれきのたいか)」を指しています。

この時の火の勢いは、それはそれは激しかったと言われていて、最終的な被害としては「当時の江戸の街の約6割」をまるごと焼き尽くすほどだったそうで、後の戦争や災害などを除いた場合「日本史上最大の火災」なのだそうです。

さらに、皆さんもごぞんじの「江戸城」における、城のシンボル「天守閣」は、この大火によって焼失しており、それ以降も再建されることはありませんでした。

これほどの影響力を持つ大火であったため、江戸幕府は大火の後に、大胆な「都市改造」に着手したそうで、この「都市改造」がなければ前述の「東京下町」へと連なる流れは「まったくなかった」ことになっていたでしょうね。

 

元々は「海」であり、埋め立てられ「陸地」となり、「火」によって変貌を遂げていくなど、RPGにおける「魔法属性」のような紆余曲折があったからこそ、現在の私たちが知る「江東」が存在すると思うと、少しだけ「感慨深い気持ち」になるのは、おそらく筆者だけではないでしょう。

 

■「水運」で存在感を示した「工業地帯・江東」

 

先程のセクションにおける時系列から、若干さかのぼった「埋め立て直後の江東」に話を戻します。

 

このような大規模の「都市改造」によって、この「江東」の地は、多くの河川や水路がもたらされるようになったのですが、これらの河川や水路によって、明治以降も「水運が盛んな地域」と知られるようになります。

さらに、そもそも「埋立地や農地」である「江東」の特性上、

・広い土地が確保しやすい

・物流面で非常に優れている

・多くの労働者が確保できる

など、さまざまな好条件がそろっているためか、他の地域に先駆けて「工業化」され、現在では「工業地帯としての顔」も兼ね備えています。

この「工業地帯としての顔」については「商業編」の方で、より詳しく解説しますので、興味のある方は「商業編」もどうぞご覧ください。

 

■実は「水面より低い?」海抜マイナス地帯の「水彩都市」

このように「海・水」と「切っても切れない関係性」を持つ「江東」ですが、

・元々「埋め立てられた土地」であるため、大部分が低地

・古くは農地、または田であったため、地下水を利用することが多かった

・ガス田開発に伴う過剰な地下水の組み上げにより、地盤沈下が進行した

などの理由から、多くの地域で「陸地面が海面より低い海抜マイナス地帯」となっています。

 

さらに、これらの要因や、前述のような「水になじみのあるエリア」という面から、地元では「水彩都市」というニックネームが定着しているそうです。
(張り巡らされたかのような「運河・水路」の状況も表現していると考えられる)

実際に、Google Mapのようなマップアプリや、航空写真などで「江東」を見ていると「明らかに人工的な様相」となっており、理路整然と並んだ状況から、絵画制作で用いられる「パレット」のような雰囲気も感じられるため、非常に秀逸なネーミングだと言えますね。

 

さて、話を「海抜マイナス地帯」に戻すと、このような地域は古くから「水害」に悩まされている場合が多く、この「江東」でも同様の歴史が繰り返されてきたことから、さまざまな「水害対策」を講じているそうです。

ただ、これらのような対策も、もちろん完璧ではないため、異常気象やゲリラ豪雨などに対して油断せずに、構えていく必要があるかもしれませんね。

 

■紆余曲折を経て「東京臨海副都心」の中心となった「江東」

 

さて、今回最後のセクションでは、先程と同様に「現在の江東」へと連なる話題をお届けしましょう。

 

この「江東」を含む「東京臨海副都心」構想が、具体的に持ち上がったのは1979年(昭和54年)。それからちょうど10年後の1989年(平成元年)には開発がスタートしましたが、当初の建設期間は「3期・27年」という広大なものでした。

なぜこんな大規模な計画になったかと言うと、時期的にピーンと来た方も少なくないでしょうが、前述の開発スタート時は「バブル期の真っ只中」であり、「バブル期以降の水準」から考えると、かなり無理のある計画であったようです。

当然、開発がすでにスタートしているにも関わらず、以降は進出予定の企業のキャンセルや、さまざまな企業招致も空振りに終わり、計画はその後見直しを余儀なくされたようです。

その後もさまざまな苦難や苦境を乗り越えた「東京臨海副都心」において、計画当初からずっと中心となっているエリアが、今回の主役である「江東」であり、当然のように今後も「臨海副都心の顔」として、さらに発展を続けていくことでしょう。

 

地元住民としては、そんな「江東区」のさらなる発展と、未来の「臨海副都心」の姿を楽しみにしつつ、この「江東」の歴史を着々と記憶に残していくべきではないでしょうか?

 

■まとめ:「江東支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回は「グリーン警備保障の支社がある街」の中から「江東の歴史編」をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の「江東支社」をはじめ、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く「警備の仕事」を取り扱っておりますが、まだまだ「支社がある街に関する情報やエピソード」については勉強中です。

より「地域」に密着した形で、メインとなる「交通誘導警備」を数多く任せていただけるような「信頼」を得るためにも、「支社のある街」に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元「江東区」をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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