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『古河の歴史編』-「支社・タウン情報」

2022年9月2日

当ブログにおいて注目を集めつつある「グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報」ですが、今回は「古河の歴史編」と題して、茨城エリア第二の支社となった「古河市の歴史に関する話題」をお送りしたいと思います。

というわけで、もはやお約束となった流れの中、今回もさっそく「古河」に関する「歴史」についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■実はあの「万葉集」にも、ご当地由来の歌が詠まれている「古河市」

 

 

さて、さっそく今回の「古河・古河市」に関する歴史の話を進めていこうと思うのですが、いつものパターン通り、まずは「地名の由来」から。

しかし、残念なことに、この「古河」という情緒あふれる地名の正確な由来はわかっていないようですが、諸説あるようで「未開地を表す『空閑(くが)』に由来する」というものや、元々のこの地が「川沿いの浸食された地域」であったことに由来する、というものなど、なかなかバリエーションに富んでいるようです。

さらには、古く「奈良時代」の末期に成立したと言われる「日本最古の和歌集・万葉集」の第14巻において「許我」という地名が登場(当地の様子が2首に詠まれているのだそう)しており、この「許我(「古我」とも)」こそ、現在の「古河(または旧古河町)」のご先祖様なのでは?と言われているそうです。

 

ただ、この両説は、皆さんもすでにお分かりの通り「共通する字」が全くと言っていいほど出てこないため「真っ向から対立する」形になっています。

とはいえ、後年「渡良瀬川の渡し場」として名を馳せたこの地ですので、筆者としては「川沿いの浸食された地域であったことに由来する」という説を推しています。(あくまで筆者の価値観であり、説の正確さや信憑性の高さによる判断ではありません)

少なくとも、室町時代には、この一体を本拠地とする「古河公方(こがくぼう)」や、江戸時代には「古河藩」が成立していたことからもわかるように、比較的早い段階で「古河」という現在も使われている地名が定着しており、非常に長い歴史を持つ土地であることは、当時から多くの人が認識していたようです。

 

さて、ここでちょっと本筋から脱線して、前述した「古河公方」という人々に焦点を当ててみましょう。

この「古河公方」という名前ではピンとこない人も多いでしょうが、実はその正体は、室町時代を語る上で欠かせない「キーパーソン」である初代将軍「足利尊氏(あしかがたかうじ)」の流れを継いだ「関東足利氏」のことを指しており、室町幕府が関東10カ国を支配するために設けた「鎌倉府」の長官を指して「鎌倉公方」と呼んだことから、後にこの「古河」の地で後身となった彼らは「古河公方」と呼ばれるようになったのだそうです。

一時は幕府と対立したことで、廃止となっていた「鎌倉公方」でしたが、1447年には、先代「足利持氏」の子「足利成氏」が「五代目鎌倉公方」となりましたが、1455年に「下総国古河」に移り住み、地名から「古河公方(初代)」と名乗るようになったことで「鎌倉公方」という役職は実質的に消滅。

しかし、この「古河公方」ですが、後にかの有名な「北条氏」と「上杉氏(上杉輝虎=上杉謙信)」が「関東の管領」を争ったために、双方が「公方」候補を擁立し合うという事態となり、最終的に消滅してしまいます。

さて、脱線はこれぐらいにしておいて、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■その規模は「東日本最大級」平安時代の製鉄所が「古河」にあった?

 

 

先程のセクションにおける「室町時代」あたりの時系列から、若干さかのぼった「平安時代」ごろに話を戻します。

実は、この頃の「古河」には、セクションタイトルにもある通り「東日本最大級」とも言われる規模の「製鉄所」があったことが確実視されているのだそうです。(古河市内の「川戸台遺跡」がそれにあたる)

当時の製鉄事情や、日本刀に詳しい方であれば、古代の製鉄が「砂鉄」を主な原料として行われていたことをごぞんじかもしれませんが、おそらくこの「古河」の地は、前述した「渡良瀬川」や、隣接する「利根川」から「砂鉄原料」を調達しやすい環境であったため、製鉄が盛んになったのではないでしょうか?

 

さらに、この「古河」で生産された「鉄鍋」と、同時期の「陸奥国」や「秋田」で出土している「鉄鍋」には、多くの共通点があるそうで、一説によると「関東から東北地方へ「鉄鍋」を含む軍事的物資や兵糧などが供給されていた」との考察もあり、その点を踏まえると「東日本最大級の製鉄所」というコピーもかなり信憑性が高いと考えられますね。

 

■茨城県初の「鉄道駅」となるなど、水運や陸運が盛んな街「古河」

 

 

さらに時代は下り、江戸時代の後期には「古河藩」の城下町・宿場町として、広く知られるようになった「古河」の地は「渡良瀬川」や「利根川」も近いことから「水運」が盛んになり、後に「江戸に入る米や野菜のための『集散地』」としても有名になっていました。

当然、この「水運が盛んな地」という利点は、その後明治時代に入っても健在であり、「内国通運(現在の「日本通運」)」などは「古河―東京」間の蒸気船を運行するようになったのだそう。

 

そして、古くからの「水運」だけでなく「鉄道による陸運(旅客)」も徐々に発展の兆しを見せるようになったことから、1885年(明治18年)にはセクションタイトル通り「茨城県初の鉄道駅」として「古河駅」がデビューします。

実は、この「古河駅」のデビューに関しては「日本鉄道(日本初の私鉄)」による「大宮―宇都宮」間(現在の「東北本線」)の開業に伴うものだったそうなのですが、少々不備もあったようで、この頃の「利根川」はまだ架橋工事が完了していなかったため、該当する区間のみ「鉄道連絡船」を用いて運行していたのだそう。

その後も徐々に人口を伸ばしていった「古河」ですが、前述の「東北本線」が電化された1958年(昭和33年)以降は「都心のベッドタウン」という役割を担うようになったのですが、詳しくは次のセクションで。

 

■「関東平野のほぼ中心」に位置し、他県との関係性も深い「古河」

 

さて、今回最後のセクションでは「現在の古河」へと連なる話題をお届けしましょう。

 

前述した1958年(昭和33年)の「東北本線電化」により、「都心への足がかり」を得た「古河」の地は、さらに人口が急増したことで、一時は「茨城県1位の人口密度」を誇るまでに急成長を遂げました。

加えて、前述の「東北本線・宇都宮線」や「東京―青森」間を結ぶ「国道4号」などの影響や「ほぼ関東平野の真ん中」という立地から「茨城県内よりも栃木・埼玉・東京等との結びつきが強くなっていった」そうです。

その結果「現在でも東京都への通勤・通学率」はかなり高いようで、この数字に関してはなんと「土浦市」を凌ぐほどなのだとか。

 

地元住民としては、さまざまなメリット・魅力を持つ「地元・古河市」に愛着を感じる人も、きっと多いでしょうし、今後もさらなる発展が期待できると確信している方も同様に多いことでしょう。

私たちも、未来の「古河市」の姿を楽しみにしつつ、今回はこの辺で「古河の歴史編」を締めることにしましょうか。

 

■まとめ:「古河支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回は「グリーン警備保障の支社がある街」の中から「古河の歴史編」をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の「古河支社」をはじめ、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く「警備の仕事」を取り扱っておりますが、まだまだ「支社がある街に関する情報やエピソード」については勉強中です。

より「地域」に密着した形で、メインとなる「交通誘導警備」を数多く任せていただけるような「信頼」を得るためにも、「支社のある街」に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元「古河市」をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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