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『藤沢の歴史編』-「支社・タウン情報」

2023年1月6日

当ブログにおいて注目を集めつつある「グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報」ですが、今回は「藤沢の歴史編」と題して、神奈川県の一都市として長い歴史を持つ「藤沢市の歴史に関する話題」をお送りしたいと思います。

というわけで、もはやお約束となった流れの中、今回もさっそく「藤沢」に関する「歴史」についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■盛んだった「江ノ島詣(もうで)」東海道の宿場町になった「藤沢」

 

 

さて、さっそく今回の「藤沢・藤沢市」に関する歴史の話を進めていこうと思うのですが、実はこの「藤沢」が、広く脚光を浴びるきっかけになったのは、なんと、古くから盛んだった「江ノ島詣」によるものなのだそうです。

 

その神秘的な姿や、独特の雰囲気から、江戸時代以前より人々の信仰を集めてきた「江ノ島」ですが、その「江ノ島」へ爆発的に足を運ぶ人が増えたのは、やはり太平の世となった「江戸時代」のことでした。

もちろん「藤沢」では「日本神道」だけでなく、奈良時代から盛んだった「神仏習合(しんぶつしゅうごう:神と仏を同化させ、同一視する思想)」の流れもあり、鎌倉仏教のひとつである「時宗(浄土宗の一宗派)」の総本山「清浄光寺」の「門前町」としても有名だったそうです。

そのような流れの中で「江ノ島詣」を行う人々を「サポート」するために、徐々に「宿場町」としての役割が「藤沢」に求められるようになっていき、最終的には「五街道」のひとつである「東海道」の「6番目の宿場町」の大役を任されるようになった、と言われています。

 

現在でも、高い知名度を誇る「歌川広重」の浮世絵作品「東海道五十三次」にも「特徴的な大鳥居のバックに江ノ島が控えている」という「おなじみの構図」で描かれており、すでにごぞんじの方や、知らなかったけど絵は見たことがある!という方もきっと多いはず。

さらに「天下人」である「徳川家康」や、代々の将軍職を務めた「徳川秀忠」三代「徳川家光」などが数多く利用した、と言われている「藤沢御殿」もこの地に存在(現存はしていない)しており、現在で言うなら「複合レジャー都市」のような状況であった、と考えられています。

さて、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■古代から人が住み着きやすい?「海」に面した地域「藤沢」

 

 

これまでの当「タウン情報・歴史編」の多くで「海に近い、または海に面した土地には古代から人が住み着きやすい」という一定の法則がうかがえるのですが、その例に漏れずこの「藤沢」からも「有史以前に人々が住んでいた痕跡」が多く出土しています。

実際の所、前述した「東海道」の辺りまで「当時は海だった」ことが判明しており、竪穴式住居や貝塚など、当時の人々の暮らしが垣間見える遺跡が数多く「藤沢」には存在しています。

 

当時の人々の暮らしを考える上で、明確な「海の近くに住む理由」を考えるならば、やはり「栄養素が豊富な食料調達が容易である」という点が真っ先に挙げられるでしょう。

日本各地に残されている遺跡においても、この「藤沢」と同様に「貝塚」が多く出土していますが、現在でも「貝」は「海の栄養素が豊富に含まれている」だけでなく、

・採集に対してあまり危険がない

・採集量が多く、安定して供給できる

・海に面している場所であれば、まず確実に採集できる

・女性や子供でも採集が可能

・貝殻などを加工して道具が制作できる

などの利点があり、この「貝」を「食料の中心」として生活することは、非常に「理にかなっている」はずです。

古くから「四方が海に面している日本」において、その恩恵を享受(きょうじゅ)できた「藤沢」の地が、今日これだけ発展しているのもうなずける事実ですね。

 

■数多くの著名人・文化人が愛した「避暑地・藤沢」

 

 

時代は下り、舞台は「江戸時代末期~明治・大正・昭和初期」に至る頃、この「藤沢」には、数多くの著名人が、夏の暑さを和らげる「避暑地」として足を運びました。

中には、この「藤沢」に別荘を構える人や、最終的に「邸宅を構えて移住する」など「藤沢を愛した人」も出てきており、現在のエアコンや扇風機などがなかった時代において「藤沢」のような「海が近い場所」に赴くことは、最高の贅沢だったのでしょう。

 

前述の通り、将軍直々に建設させた「藤沢御殿」も、多忙を極める「将軍」にとっての「別荘」の扱いでしたし、実際に、現代国語の教科書でもおなじみの「芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)」や「武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)」などは、定期的に「藤沢」に足を運んでいたり(芥川)、実際に居を構えたり(武者小路)したそうです。

 

ただ、こうした著名人・文化人などが、こぞって「藤沢」に移住した背景には、多くの人が知っている「関東大震災」により、生家や居住地が被災したことがきっかけになっていた、という話もあるようですね。

もうひとつ、当時の傾向として「療養のために藤沢に移住した」という例も数多くあり、前述の「武者小路実篤」とも親交が深かった、画家の「岸田劉生(きしだりゅうせい)」などは、当時はまだ「不治の病」として扱われていた「結核」を疑われたことから「藤沢」に転地療養の目的で移住しています。

 

■東京・横浜の「ベッドタウン」として、今も発展を続ける「藤沢」

 

さて、今回最後のセクションでは、我らが「藤沢」のその後について、解説を続けていきましょう。

 

第二次世界大戦の戦火の中で、レーダー技術者養成のために建てられた「海軍電測学校」や、実際に「電波兵器」や「光学兵器」の整備訓練教育が行われていた「藤沢海軍航空隊」など、この「藤沢」には、数多くの重要施設が配置されていました。

しかし、戦後ともなると、これらの軍事的重要施設は、当然のように接収されるか、廃止となるしか道はなく、残された土地を有効活用するだけでなく「戦後の発展を目指す日本」のために「首都のベッドタウン」としての役割を強めていきます。

当然、人の集まる所には「交通」や「商業」「観光」など、さまざまな要素が関係してくることになり、今日の「藤沢」が出来上がっていった、というわけです。

 

特に「交通」の一要素である「鉄道」において、中心となる「藤沢駅」は「小田急江ノ島線・江ノ電・JR東海道本線」など3路線以上が集まるだけでなく、市北部の中心地である「湘南台」も「相鉄線・横浜市営地下鉄」に加え「小田急江ノ島線」など3路線が利用可能であるなど、非常に充実しており、都心や横浜への「人員輸送」を日夜支えています。

その後の「藤沢市」の歩みは、皆さんもよく知っていることだろうと思いますが、今後もその歩み、すなわち発展の歴史は、とどまることなく続いていくでしょう。

私たちも、今後の「藤沢市」の姿を楽しみにしつつ、今回はこの辺で「藤沢の歴史編」を締めることにしましょう。

 

■まとめ:「藤沢支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回は「グリーン警備保障の支社がある街」の中から「藤沢の歴史編」をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の「藤沢支社」ももちろんのこと、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く「警備の仕事」を取り扱っておりますが、まだまだ「支社がある街に関する情報やエピソード」については勉強中です。

より「地域」に密着した形で、メインとなる「交通誘導警備」を数多く任せていただけるような「信頼」を得るためにも、「支社のある街」に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元「藤沢市」をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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街中での歩⾏者や⾞に対しての安全でスムーズな案内・誘導業務です。

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