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『新横浜の歴史編』-「支社・タウン情報」

2023年4月5日

もはや定番となった「グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報」ですが、今回は、最新の営業所(記事執筆当時)となる「新横浜の歴史編」と題して、一風変わった紆余曲折を持つ「新横浜の歴史に関する話題」をお送りしたいと思います。

今回は、以前ご紹介した「横浜」との共通点や、逆にまったく異なる点なども踏まえた上で、改めて「新横浜」に関する「歴史」についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■過去の「新横浜」で「大きな反乱戦」があったってホント?

 

 

「新横浜」の歴史を語る上で、現存する資料などを調べてみると、ほとんどの場合で一番古い記録は、はるか室町時代の「長尾景春(ながお かげはる)の乱」の戦場となったことが挙げられています。

この「乱」という言葉からも分かる通り、この戦いは「時の権力者に対しての反乱」であり、大きな騒動や争いによって、世の中が変わっていくきっかけとなる戦いのひとつなのですが、この「長岡景春の乱」は、実に30年もの長きに渡った戦いであり、当時の関東全体を巻き込むほどの大規模なものでありました。

 

さらに当時は室町時代ということもあり、その前の鎌倉時代から続く権威や、有力者たちは関東に集中していました。

その中でも、非常に優れた武勇を待つ長尾景春は、本来であれば自身に任せられるはずの役職を、覆すかのような人事に反発し、縁者のひとりである太田道灌(おおた どうかん・江戸城を築城したことでも有名)に相談しますが、道灌がこの訴えを拒否したことから、最終的には2500騎あまりの兵を率いて挙兵します。

その後、さまざまな紆余曲折を経て、道灌自身の活躍によりこの乱は鎮圧される結果となりますが、景春は戦死せずに戦後を迎え、不本意ではありますが道灌の上司である、関東管領の上杉氏との和睦を結ぶことになります。

 

ただ、この戦功に対し、十分な恩賞が与えられなかった道灌は、上杉氏に対し不満を抱いたともいわれており、最終的にその力を危険視した上杉氏によって誅殺されることとなるのですが、紙面の関係上、解説はここまでにしておこうと思います。

では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■近代的なイメージとは正反対?かつては一面の田畑地帯だった?

 

 

 

さて、続いては、現在の姿からは想像しにくい、かつての「新横浜」に関するお話を進めていきましょう。

 

実は、現在の「新横浜」周辺を含む広い地域は、太平の世になった江戸から明治、大正、昭和期に至るあたりまで、見渡す所一面の田畑地帯であったそうです。

もちろん、当時はこれといった産業もなく、同じ横浜市内であっても発展していた地域からは距離があるため、その代わりに農業で栄えていたのでは?と考える方も多いのですが、実際には「勝負田(しょうぶだ)」と呼ばれる「お金がない農民のための田畑」であったといわれています。

この「勝負田」というのは、より多くの収穫が可能な「二毛作」ができない、利用価値の少ない田畑につけられていた「あだ名」のようなもので、この地に集まった農民たちは、農作業の代わりにこぞって博打を打つようになったといいます。

しかも、博打で負けた農民たちは、借金の代わりに所有する田畑を売りに出すようになっていったこともあり、博打などの「勝負の際に掛けられるほどの価値しかない」という意味をこめて、この名が付いたそうです。

 

この「勝負田」は、昭和時代に入っても残り続けていましたが、当時、自動車でおなじみのフォード社が、この地に工場を作るという噂話がまん延したことで、多くの所有者が安い金額で田畑を売り払うようになっていきます。

ただ、この噂話、現在では、悪質な不動産ブローカーによる「用地買収を進めるためのデマ」に過ぎず、かなり眉唾ものの話であったことがわかっています。

ここまでの内容を踏まえると、当時の「新横浜」は、かなり危機的な状況であり、例え田畑を所有していたとしても、安価で手放す人が多かったのが、手に取るように想像できますね。

 

■わずか半世紀で劇的な変化を遂げた「新横浜」

 

 

ここまでの厳しい状況も、買収の後となる1964年(昭和39年)にもなると、前述の「長尾景春の乱」と同様に「大きな転機」を迎えます。

そのきっかけとなったのは、同年に開通した「東海道新幹線」と、翌年に開通した「環状2号」なのですが、他の新幹線駅などと同様に、各地を飛び回るビジネスマンの受け皿として、数多くの宿泊施設が準備されるようになっていきます。

 

ビジネスマンが集まるようになれば、当然のように、この地にオフィスや自社ビルを構えようとする企業も集まっていき、より発展のスピードも増していったのですが、その動きに拍車をかけたのが1976年(昭和51年)の「新横浜駅のひかり停車」開始です。

さらには、1985年(昭和60年)に市営地下鉄の延伸開業、1989年(平成元年)の横浜アリーナ開館など、ビジネス目的以外の商業施設や娯楽施設、飲食店なども多数集まるようになり、今日の「新横浜」へとつながっていきました。

 

■新たに東急新横浜線も開業!「新横浜」の今後はどうなっていく?

 

さて、今回最後のセクションでは、2023年3月に「東急新横浜線」が開通した、今回の主役「新横浜」の「今後」についての考察・解説を進めていきましょう。

 

前述した「横浜アリーナ」や、各種ホテルなどが駅前に集中したことにより、従来とは異なる「エンターテイメント・娯楽の街」としての顔も目立つようになった「新横浜」ですが、今後も安定した発展が続く、と考えている有識者も多いようです。

このエリアや周辺地域では、鉄道はもちろんのこと、車やバスなどの交通網も今後、さらに充実していくことが容易に予想できます。

そうなると、さらなる発展のために必要となってくるのが、都市再開発事業や環境対策の推進、関連施設などでしょう。

 

特に、電力などをはじめとする省エネルギーや、ごみ処理・リサイクル関連の取り組み、環境に優しい都市を目指すための動きなどは、周辺地域の住民や企業からも数多くの要望が寄せられているそうです。

このように順風満帆な未来が期待されている「新横浜」ではありますが、今後さらに本格化すると考えられる「超高齢化社会」によって、全国各地の都市開発の多くがペースダウンを余儀なくされている現状もありますので、住民だけでなくこの地に集まる企業としても、動向が注目されています。

 

■まとめ:「新横浜営業所」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回は「グリーン警備保障の支社がある街」の中から、執筆現在最新オープンの営業所となる「新横浜の歴史編」をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の「新横浜営業所」ももちろんのこと、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く「警備の仕事」を取り扱っておりますが、まだまだ「支社がある街に関する情報やエピソード」については勉強中であり、もっともっと多彩な情報をインプットしていきたいと考えています。

より「地域」に密着した形で、メインとなる「交通誘導警備」を数多く任せていただけるような「信頼」を得るためにも、「支社のある街」に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元「新横浜」をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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街中での歩⾏者や⾞に対しての安全でスムーズな案内・誘導業務です。

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