グリーン警備保障の交通誘導・イベント警備等のアルバイト求人。20代からシニア世代まで活躍中!

【公式サイト】グリーン警備保障のアルバイト求人
24時間受付中!

ブログ

『赤羽の歴史編』-「支社・タウン情報」

2023年5月8日

もうすっかりおなじみとなった、グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報、今回は赤羽の歴史編と題して、独特の空気感が特徴となる赤羽の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。

今回も都心から埼玉県への玄関口、またはその逆の役割を持ち、古くから栄える赤羽の歴史についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■由来については諸説あり?意外と古い赤羽の名前の由来とは?

 

 

まずは特徴的な、この赤羽の地名の由来からご紹介していきましょう。

実にバラエティに富んだ諸説がありますが、逆に言えばこれだけ多くの説があるということは、どの説も決め手となる根拠・証拠の面で乏しく、文献などへの登場も唐突であり、その信憑性(しんぴょうせい)に疑問が生じていると考えることもできるでしょう。

では、実際に言われている説をまとめてみましたので、まずはご一読を。

 

【赤羽橋の説】

江戸時代にこの地域にあった赤い羽根が描かれた橋、その名も赤羽橋から来ているとされています。この橋は王子神社へ向かう参詣道の一部であり、多くの人々が通行していたため地名として定着したと言われているそうです。

 

【赤羽根神社に由来する説】

かつてこの地には赤羽根神社という神社があり、その神社の名前からそのまま地名になっていったという説もあります。ただし、この神社は現存しておらず、詳細な情報・根拠が不明であるため、信憑性は低いとも言われています。

 

【赤羽組の説】

江戸時代には、この地域で活動していたとされる赤羽組という名の芸者集団がいたのだそうで、彼女たちの名がそのまま地名になったという説も存在ししているそうです。

 

【出土する『土』に由来する説】

最も信憑性が高いとされている説のひとつ。古くからこの地では土器づくりに適したきめの細かい粘土質の赤土が多く含まれており、この赤土は「赤埴(あかはに)」と呼ばれ広くその名が知られていたのだそう。

この「あかはに」が次第になまっていき、今日の赤羽になったというわけですが、漢字での表記としては現在の赤羽の他にも「赤羽根」というものも解雇に併用されていたそうです。

 

【赤いばね土=赤羽説】

こちらは上記の説の異論のひとつで、粘土質の赤土からあかはにと読まれる所までは一緒ですが、粘り気のある粘土質の土を当時は「ねば土・ばね土」と名付けていたらしく、この赤いばね土から赤羽になったとのことです。

 

【これらの諸説が複合している説】

この説に関しては正直な所、証拠や確認する手段に乏しく、立証が極めて難しいと考えられています。

では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■かつては「注目を集める宿場町の隣町」に過ぎなかった?

 

 

さて、都心の地名の中でもすっかりメジャーな地名となった赤羽ですが、実は江戸時代の頃の赤羽は、宿場町として栄えた隣町『岩淵宿』の影に隠れていた町(というよりも集落)のひとつに過ぎず、今日の姿からは遠く離れた存在であったのだそうです。

さらにこの当時の赤羽は、前述した説の中にある「赤羽根」の名前の方が一般的であり、『岩淵本宿町』と立派な名前のついていた岩淵との待遇の差は歴然としていました。

 

現在、赤羽駅の近くを通る国道17号線は、かつて江戸の五街道のひとつであった「旧中山道」であり、ここから徳川家で有名な「日光」へ向かう脇往還(五街道以外の当時主要な街道をこう呼んでいた)における最初の宿場町が、何を隠そうこの『岩淵本宿町』でありました。

江戸時代はこの五街道や脇往還などが、陸運の主要ルートとして盛んでしたが、現在のように車両や電車などが発達していなかったこの時代、陸運での輸送量には限りがあり、他の主要な運搬手段として河川を利用した水運の方が知名度や輸送量で勝っていたそう。

ただし、当時の岩淵はどちらかといえば、豊かな荒川を利用した水運で運搬された荷物が持ち込まれる「中継基地・配送基地」としての役割の方が大きかったそうで、意外にも人や牛・馬の行き交う数は少なかったそうです。

とはいえ、赤羽が「宿場町岩淵の影に隠れる単なる一集落」から脱却するまでには、もう少しだけ時間がかかることになります。

 

■鉄道によって従来の評価が一変!注目を集めるようになる?

 

前述したように機械による動力を利用できなかった江戸時代が去り、大きな混乱の後に明治政府が国政を握るようになると、近代化の波は鉄道に姿を変え、陸運での輸送量は右肩上がりに増えていきました。

そんな中、1889年(明治22年)には、こちらも前述となる旧赤羽村と旧岩淵宿が合併することになり、新たに『岩淵町』が誕生します。

それ以前に、この岩淵町にはすでに鉄道駅が設置(1885年)されていたのですが、この駅こそ現在の赤羽駅のルーツなのです。

 

ではなぜ、当時知名度の面で高かった岩淵が駅名にならなかったのでしょうか?

その理由は、旧赤羽村の村域の方が駅建設に必要となる用地が確保しやすく、後の合併でその名が消えてしまいそうだった赤羽の地名を後世に残すために駅名にした、というのが有力になっています。

ただこの命名は、結果的に赤羽の躍進と岩淵の衰退のきっかけとなってしまい、江戸時代の両者における地名の力関係はあっさり逆転、戦後の住居表示実施によって岩淵の地名があわや消滅しそうな事態へと発展するまでになってしまいます。

 

この状況も、当時住民による必死の嘆願が功を奏し、一部地域は岩淵町という地名のまま残るようになりました。

そして、この由緒ある地名を後世に残すため、現在東京メトロ南北線や埼玉高速鉄道の駅名として「赤羽岩淵駅」が1991年(平成3年)に開業していますが、流石に両者の力関係は再度逆転するまでには至らないでしょう。

 

■独特の「ゆるい空気感」が魅力?赤羽の紆余曲折

 

 

さて、今回最後のセクションでは、戦後から今日の赤羽の道のりについて、さらなる考察・解説を進めていきます。

 

戦後の赤羽は、数多く立った闇市にていち早く復興への道のりをたどるようになり、その後「工業地域」としての性格を(一時的に)強めていきます。

赤羽の工場で働く労働者向けの飲食店が、駅前に集中し始めたのもこの時期が境になっており、最終的には多くの移住者により市街地化するまでに至ります。

 

時代の流れによって一時的な工業地帯から市街地化し、一転繁華街への道を行くことになった赤羽ですが、実はこの紆余曲折の赤羽近代史が、現在の赤羽における「ゆるい空気感」へとつながっているのだそうです。

赤羽の駅周辺の市街地は比較的安価で楽しめる飲食店街がありますが、この雰囲気により、真面目な土地柄の地とは異なる価値観を持つ人々が多く集まるようになっていきます。

若干矛盾する面はあるものの、こうして今日の赤羽の持つ独特な雰囲気が出来上がり始めたようです。

 

■まとめ:「赤羽支社」を有する「グリーン警備保障」で働いてみませんか?

 

さて、今回はグリーン警備保障の支社がある街の中から、注目している人も少なくない赤羽の歴史編をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の赤羽支社ももちろんのこと、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く警備の仕事を取り扱っておりますが、まだまだ「支社がある街に関する情報やエピソード」については勉強中であり、もっともっと多彩な情報をインプットしていきたいと考えています。

より地域に密着した形で、メインとなる交通誘導警備を数多く任せていただけるような信頼を得るために、これからも支社のある街に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元赤羽をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

イベントやコンサート会場など、⼈が多く集まる場所で⾏列の誘導や警備、
街中での歩⾏者や⾞に対しての安全でスムーズな案内・誘導業務です。

イベントやコンサート会場など、⼈が多く集まる場所で⾏列の誘導や警備、街中での歩⾏者や⾞に対しての安全でスムーズな案内・誘導業務です。

各支社ページからご応募下さい(応募は24時間365日いつでも受付中)

各支社募集要項が異なりますのでご確認の上ご応募下さい
時期により求⼈募集を⾏っていない場合あり