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『立川の歴史編』-「支社・タウン情報」

2023年5月8日

グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報、今回は立川の歴史編と題して、雑多な雰囲気が特徴の立川の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。

今回も古くから栄える立川の歴史についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■激動の歴史の始まりは『縄文時代の村落』から

 

 

立川の歴史のはじまりは、有史以前の縄文時代というのが現在の定説になっているそうです。

多摩川沿いの段丘地に残る大和田遺跡は、1954年(昭和29年)からはじまった六度に渡る学術調査により、縄文時代初期から奈良・平安時代に至る期間の集落の痕跡が残っていることが判明したそうです。

 

両者のより古い方、すなわち縄文時代の集落跡がこの立川の地の起源・ルーツであり、およそ1万2千年近く続いた同時代においても初期のものとなる『撚糸文期(ねんしもんき)』の土器が出土していると言われています。

この『撚糸文』は、糸の束をねじったものを棒に巻き付けた状態で土器の表面を滑らせる形で付けられており、撚糸の間隔や巻きつける方向などによって他の縄文と区別できるのだそうで、時期としては約8千年前のものになります。

他にもこの大和田遺跡からは、さらに時代が下った縄文中期の集落跡も掘り出されていますが、同じ縄文時代でもこのふたつでは集落の規模が大幅に異なっており、前述した撚糸文期と比べると約5倍の規模まで膨れ上がっていたそうです。

 

そんな古くから人が住み着いていたのなら、さぞかし住みやすい環境だったのだろうと考えた方も多いでしょう。

もちろん、後の調査によって判明しているこの地域の住みやすさは当時でも群を抜くレベルだったと推定されていて、段丘の下からは質の良いきれいな水がいたるところから湧き出していたと言われています。

丘があり日当たりも非常に良い上に、生活に欠かせない豊かな水が容易に手に入れられる環境であることも重なってか、奈良・平安時代に至るまで人が定住していたのも納得できるクオリティですね。

では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■個人が先か地域が先か?不思議な立川、地名の由来

 

 

このように有史以前から人が定住してきた豊かな地ですから、農業が盛んになる頃には当然のようにこの地を領有したいと考える豪族も多く出てきたようです。

それら多くの豪族の中、結果的にこの地を支配することになったのは、立川二郎宗恒を開祖とし、その歴史は天正年間まで長く続くこととなる『立川氏』でした。

彼らはこの立川南部を中心にした範囲の「地頭(じとう・中世にその土地を支配し、税の徴収や守護に当たった豪族のこと)」として君臨しており、一時期は『立河(たてかわ)』と名乗っていたこともあるものの、この地が立川と名付けられるきっかけとなった人物・一族だと考えられています。

 

もうひとつ、立川の地名の由来として伝えられているのが、当時『多摩の横山』と呼ばれていた地域から多摩川を眺めた時に、横山に対して縦方向に多摩川が流れているように見えたのだそうで、この見え方が顕著だったのが現在の立川(立川の他に日野などもこのエリアに含まれているらしい)だった所から「立川」になったという説もあります。

仮にこの説を信じるのであれば、立川の川は「多摩川」で確定でしょう。

 

このふたつの説は、現在地名の由来の中で最も有力視されているものなのですが、どちらが先なのかを決定づけるほどの根拠や理由は今でも分かっておらず、真相は今も謎のままです。

その後、江戸時代に築かれた玉川上水の影響からか、周辺各地で新田開発が進み、数多くの村落が形成されるようになりましたが、立川がその発展の基礎を固めるまでには、まだもう少しだけ時間がかかることになります。

 

■ひとりの誘致が立川に鉄道を呼んだ?明治立川興亡記

 

 

時代は下り明治期の立川は、これまでと同様に豊かな環境を生かした農業が盛んな村落としての顔を持っていましたが、この流れを変えたと言われているのが『板谷 元右衛門(いたや もとうえもん)』という明治時代の料理店経営者です。

彼は、経営していた料理店の繁栄の傍らで、所有していた広大な土地の多くを寄付し、その見代わりとして、当時甲武鉄道(現在の中央線のルーツとなる私鉄路線)立川駅の建設・開業を誘致したとされています。

 

この誘致も影響してか、1889年(明治22年)は無事に甲武鉄道と新宿-立川間が開業されましたが、この直前となる1881年、それまでの「柴崎村」と同名の村が北多摩郡内に存在したことから、この地域は戦国時代の名称を取り入れた「立川村」に名称変更をしていました。

ではもし、この名称変更がなかったら?

おそらくそれ以前の名称であった柴崎村から駅名が取られていたことは間違いないでしょう。

そしてこの駅の開業がきっかけとなり、その後立川飛行場の設置が伴って、立川にはさまざまな商業・工業がもたらされることになります。

 

■在日米軍施設がある街 ⇒ 豊かな自然が残る街へ、

 

さて、今回最後のセクションでは、戦後から今日の立川の道のりについて、さらなる考察・解説を進めていきます。

 

戦後の立川は、ごぞんじの方も多いように在日米軍によって数多くの米軍施設が設けられましたが、その中心になっていたのが『立川飛行場』です。

この立川飛行場は、1922年(大正11年)に当時の帝都防衛構想にのっとり、陸軍航空部隊の中核を担う拠点として設立された飛行場ですが、当時の立川は軍施設を設けるだけの広大な土地に恵まれており、翌1923年から10年ほど軍民共用の飛行場として使用された以降は軍用飛行場としての扱いとなっていました。

 

1945年(昭和20年)の敗戦後、この立川飛行場は連合国に接収されましたが、それから約30年以上の期間を経た1977年(昭和52年)11月30日をもって全ての敷地が完全返還されることになります。

この敷地の一部は、今日では『国営昭和記念公園』として知られており、豊かな自然があふれるいやしの空間として、地元住民をはじめ周辺からも数多くの人が足を運ぶ、大人気の公園になっています。

話を立川飛行場に戻しますが、前述した通り、立川飛行場をはじめとしたさまざまな軍施設が設置された立川では、商業や工業が発展したことで繁華街・住宅街としての発展を遂げていくことになりますが、上記の全面返還以降もこの流れはとどまることなく、現在の立川の繁栄につながっています。

 

このように、非常に複雑な紆余曲折の上に成り立っている立川の歴史には、まだまだ不思議で面白い話が数多く存在していますので、次の機会がありましたらまたいろいろご紹介していきたいと思います。

 

■まとめ:「立川支社」を有する「グリーン警備保障」で働いてみませんか?

 

さて、今回はグリーン警備保障の支社がある街の中から、注目している人も少なくない立川の歴史編をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の立川支社ももちろんのこと、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く警備の仕事を取り扱っておりますが、まだまだ「支社がある街に関する情報やエピソード」については勉強中であり、もっともっと多彩な情報をインプットしていきたいと考えています。

より地域に密着した形で、メインとなる交通誘導警備を数多く任せていただけるような信頼を得るために、これからも支社のある街に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元立川をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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