『練馬の歴史編』-「支社・タウン情報」
2023年6月5日
もうすっかりおなじみとなった、グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報、今回は練馬の歴史編と題して、近年住宅街としても人気の高い練馬の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。
今回も、23区内随一の『緑が多い閑静な住宅街』としての役割を持つ練馬の歴史についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!
では、さっそく最初のセクションから!
■由来については諸説あり?さまざまな説が乱れ飛ぶ練馬の由来とは?
まずは特徴的な『練馬』の地名の由来からご紹介していきましょう。
実にバラエティに富んだ諸説がありますが、逆に言えばこれだけ多くの説があるということは、どの説も決め手となる根拠・証拠の面で乏しく、文献などへの登場も唐突であり、その信憑性(しんぴょうせい)に疑問が生じていると考えることもできるでしょう。
では、実際に言われている説をまとめてみましたので、まずはご一読を。
【馬の訓練場説】
最も有力かつ一般的な説で、この地域で馬、特に軍馬の調教が行われていたことから『練馬』と名付けられた、というものです。
特に、鎌倉時代から室町時代にかけて、この地で武士が馬術の練習をしていたという歴史的な記録があります。
当時は馬に訓練を施すことを「馬を練る」と表しており、その点からも支持者が多い説となっています。
【煉瓦の製造元だった説】
もうひとつの有力な説としては、かつてこの地域で煉瓦(れんが)が生産されていたことから、それが転訛して『練馬』となったというものです。
確かに「煉瓦の材料を練る」という所から「練」の字が導き出せますので、それなりの説得力を持つ説でもありますね。
【神社の名称が由来となった説】
古くからこの地に鎮座(ちんざ)する『練馬大神社』を地名の由来とする説もあります。
ただ、逆に『この神社名自体が地名から来ている可能性』も指摘されているため、少々説得力に欠ける説でもあります。
【かつてこの地にあった「練馬城」に由来する説】
かつての「練馬名物」のひとつでもあった遊園地「としまえん」ですが、実はこの敷地にはかつて「練馬城」という城が建てられており、この城名が由来となった説も存在しています
ただ、こちらも前述のように『この城名自体が地名から来ている可能性』があり、少々説としては弱いものになっているそうです。
【「根沼」と呼ばれる地形が多くあり、それが訛って定着した説】
この地域では古くから石神井川流域の低地の奥まった所に「沼」が多くあったそうで、このような沼を総称して「根沼」と呼んでおり、それが訛ったものが地名として定着したという説もあります。
【これらの諸説が複合している説】
どの説も単独で地名の由来になるほどではなく、これらの説が複合した形で徐々に地名が定着していった説も有力視されていますが、この説の弱点としては証拠や確認する手段に乏しく、立証が極めて難しい点でしょう。
では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。
■「23区で唯一」の称号を持つ練馬区の秘密とは?
現在、すっかり都心の顔として広く浸透した「東京23区」ですが、現在これらの区は「特別区」という名称を持っており、それ以前(1943年(昭和18年)7月にそれまでの「東京府東京市」から現在の「東京都」制へ以降)の名称としては「行政区」という区分になっていました。
実はこの「練馬区」のみ、他の22区とは異なり、上記の「特別区」成立以降に新設された区であるため、セクションタイトルのように「23区で唯一」の成立経緯を持つ「特別区」となっているのです。
現在、赤羽駅の近くを通る国道17号線は、かつて江戸の五街道のひとつであった「旧中山道」であり、ここから徳川家で有名な「日光」へ向かう脇往還(五街道以外の当時主要な街道をこう呼んでいた)における最初の宿場町が、何を隠そうこの『岩淵本宿町』でありました。
もちろん、他の22区は「特別区」以前にも「行政区」時代が存在していますので、言い換えるならばこの「練馬区」は「23区で最も新しい区」とも表現できるわけです。
ただし、この状況はあくまで「練馬区にこだわった見方」になり、現在の「練馬区」は、この当時「板橋区」に属していたため、厳密に言うなら現「練馬区」の地域であっても「(板橋区としての)行政区時代」が存在している、ということになります。
■世界に誇る「日本のアニメ産業」を支えてきた聖地、練馬
近年の日本を世界的に見た際に、特徴的な点として「アニメ産業の質・量共に非常に充実している」という部分が挙げられると思いますが、実は「日本のアニメ産業」の礎となり、聖地とされてきたのが、何を隠そうこの「練馬」だということはあまり知られていません。
その歴史を紐解くと、かつてこの練馬には日本の映画シーンをリードする「東映東京撮影所」と共に、これまた日本のアニメ制作会社の草分けとなった「東映動画」のスタジオが存在(1957年(昭和32年)に練馬へ移転)しており、日本アニメの黎明期を支える本格的な長編アニメーション作品が続々発信されていたのです。
当時の「東映」のプロデューサー・社長を務めていた「岡田茂」は、この様子を指して「東映が日本のアニメーターを養成したようなもの」と表現しているほどで、現在に至る『アニメ隆盛時代』を支える存在であったと言っても決して過言ではないでしょう。
このように、映画作品に準ずる「長編アニメーション」からその歴史をスタートさせた日本のアニメ産業ですが、1960年代にテレビの急速な普及に伴い劇場用からテレビシリーズ用へと徐々に主流が交代していき、この時期に他のアニメ制作会社の多くはテレビシリーズ一本へ方向性を切り替えていったものの、老舗の「東映動画」のみは並行して長編動画の制作を続けていたそうです。
しかし、そのような戦略が裏目に出て、この時代の「東映動画」は長編アニメ作品を作るたびに大きな赤字を抱えるようになっていきました。
ただ、この時期に培った企業イメージにより、後に「東映動画」もテレビアニメ制作にシフトした時には、大手の制作会社であるという印象を依頼元ととなる放送局や出版社、広告代理店などに与えたことにより、会社の存続や赤字の解消に大いに役立ったそうです。
こうして、この「東映動画のお膝元」というイメージが根付いた「練馬」は、その後も依然として「日本アニメ産業の中心地」としてあり続けることになったのですから、この一連のお話も「昭和の練馬史」を語る上で重要なポイントであると言えるでしょうね。
■なぜここまで「治安が良い特別区」になったのか?
さて、今回最後のセクションでは、もうひとつの「練馬」の大きな特徴である「治安の良さ」について、さらなる考察・解説を進めていきます。
前述のように、この「練馬区」は、特別区として最後発となる地域であるため、他の特別区の様子を参考に、スムーズな発展を遂げていきました。
そのメリットのひとつが「23区でも随一となる治安の良さ」でしょう。
以下には「練馬区が、なぜここまで治安の良い特別区になったのか」の理由をまとめてみました。
【住民のコミュニティ意識が高い】
練馬区は地域コミュニティが非常に強く、住民同士が助け合い、見守り合う文化があります。これにより、犯罪を未然に防ぐことができます。
【公共施設が充実した環境である】
練馬区は公共施設が充実しており、特に子供や高齢者が安全に過ごせる環境が整っているため、犯罪の抑制に一役買っています。
【警察の活動が活発】
練馬区では警察が積極的にパトロールを行っており、治安維持に努めていると言われています。また、住民と警察との連携も密で、犯罪の早期発見・防止につながっています。
【教育の充実】
練馬区は教育環境が充実しており、子供たちに良い道徳観を教えています。この流れが未来の犯罪を防ぐことにもつながっていったのでしょう。
一番の理由としては、これらの適切な施策が古くから定着していたため、と言えるかもしれませんが、治安の良さは時代によって変動するものですから、数年後にはこの状況が一変している可能性もあるでしょう。
■まとめ:「練馬営業所」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!
さて、今回はグリーン警備保障の支社がある街の中から、注目している人も少なくない練馬の歴史編をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?
より地域に密着した形で、メインとなる交通誘導警備を数多く任せていただけるような信頼を得るために、これからも支社・営業所のある街に関する情報発信を進めていきたいと思っています。
こちらの記事を見て、地元練馬をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?