『船橋の歴史編』-「支社・タウン情報」
2023年7月4日
もうすっかりおなじみとなった、グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報、今回は船橋の歴史編と題して、実は鳥取県よりも人口が多いと言われている船橋の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。
今回も、かつては「日本の上海」の異名を持つほど、戦後の闇市が発展した経験を持つ船橋の歴史についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!
では、さっそく最初のセクションから!
■実はかなり古い?船橋の地名の由来とは?
当タウン情報・歴史編ではもはやおなじみとなった感のある「地名の由来」ですが、実は今回の船橋の場合、ほぼ一強とも言えるほど有力な説があるようなのです。
では、実際に提唱されている説をまとめてみましたので、まずはご一読を。
【船を連ねて橋をかけたという説】
前述したように、最も有力かつ一般的な説となっているがこの説ですが、その由来となっているのは古代日本における超有名人の一人、ご存知ヤマトタケルにちなんでいるのだとか。
歴史の教科書にも乗っているほど有名な逸話として、このヤマトタケルはかつて、熊襲(クマソ・当時敵対していた民族をこう呼ぶ)討伐、東国討伐に赴いたことがありました。
この際、進路を塞ぐ川を渡るために、その川にたくさんの船を並べ、橋として利用したのだそうですが、そのようにして作られた橋は読んで字の通り「船橋」と呼ばれるようになったそうです。
ただし、これはあくまで「この話が由来となり、結果的に船橋という名称になった」ということに過ぎず、ヤマトタケル本人が船橋をかけたのは、現在の「船橋市」ではない、というのが定説になっています。
【海老川に上記の『船橋』をかけたという説】
おそらくこちらの説の方が「地名として正しいもの」かもしれませんが、この地域に今も流れている「海老川」に、前述の「船橋」をかけたことが直接の由来となっているというものです。
当時の海老川は、川幅が広い上に水量が多かったせいで、なかなか橋をかけられなかったそうで、さらに数珠つなぎに並べた船の上に進路となる板を敷くというなかなか凝った作りになっていたのだとか。
では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。
■こちらもやっぱり「元宿場町」でした
さて、この所、当タウン情報でご紹介している「支社のある街」は、江戸時代やそれ以前から「元宿場町」として栄えてきたケースがほとんどなのですが、この船橋もその例に漏れず、かつては「佐倉街道・御成街道」に属した「船橋宿」だったのだそうです。
さらに、そのルーツを辿っていくと、鎌倉時代に幕府を立ち上げた源頼朝を中心に、主に鎌倉幕府の成り立ちから第6代将軍「宗尊親王」までを記録したと言われる歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」にも「船橋」の地名が登場しています。
ただ、当時は後のような宿場町ではありませんでしたが、前セクションでもご紹介した古代の交通の要所「海老川」における河口港として機能していたため、船橋のルーツは「中世の港町」であったと考えられています。
このように中世~江戸時代にかけて港町から宿場町への変貌を遂げていったわけですが、明治の世を経て近代に至るまでに、この船橋はもうひとつ、大きな変化を迎えることとなります。(詳しくは後述します)
ここでは、関東地方の「支社のある街」は、そのほとんどが「中世から江戸時代にかけて宿場町として機能していた所だった」という、当タウン情報の王道パターンを覚えておいてもらえれば幸いです。
■「軍都・習志野」を長年支えてきた船橋の役割とは?
前述したように、近代を迎えた船橋は新たな変貌を迎えることになったのですが、実は川端康成の小説にも「船橋は兵隊の町」という一節が登場しており、当時の船橋は「兵隊や軍属を相手にした産業が発達」した、いわゆる「軍都」に近いものだったと言われています。
ただ、実際の軍都としては近接する「習志野」がその役割を務めていたため、この船橋はどちらかといえば「軍関係物資の集積地」としての位置づけであったと言えます。
ここで名前が出てきた「習志野」の軍都としての成り立ちを少しだけ解説しておくと、大河ドラマなどでも有名な西郷隆盛が1873年(明治6年)に当時の陸軍大将として近衛兵(皇室関係者や皇居を守る兵士)の大演習を行ったことが発端となったそうです。
この大演習をその目で見ていた明治天皇は、この一帯を「習志野原」へ改称するように命じるのですが、この時の近衛兵が中心となり後の大日本帝国陸軍が創設されたというのですから、後の軍都としての発展も無理もない流れですね。
話を船橋に戻すと、この軍都「習志野」を物資や産業で支える軍需経済都市としてのあり方が、船橋に求められた役割だったと言って決して過言ではないでしょう。
ただ、この船橋ですが、ごぞんじの方も多い通り、旧軍都や周辺地域の中では比較的被害が少なかったことと、それまでの「軍関係物資の集積場」だったことなどが重なり、冒頭でもご案内したように戦後は「日本最大級の闇市」が賑わう都市へと変貌を遂げました。
その様子を端的に表したニックネームが、前述した「日本の上海」だったのですが、戦後の一時期のみとはいえ、当時そのようなあだ名が船橋に付いていたとは知らなかった方も多いのではないでしょうか?
■県内だけでなく全国でも随一の規模を誇る「商業中心都市」?
さて、今回最後のセクションでは、さまざまな変貌を遂げてきた船橋の現代の姿である「一大商業中心都市」について、さらなる考察・解説を進めていきます。
前述したように、間違いなく今の船橋の商業的な発展は、
・戦後闇市としての賑わいがあったこと
・かつて多くの軍需物資が集まる地であったこと
・宿場町時代から陸路・水路が集中する地域であったこと
というようなさまざまな要因に支えられてきたものでした。
しかし、この他にも非常に重要な要素のひとつが、
・戦前から宅地化が進められており、鉄道路線の充実が著しい
という点になります。
実は、この船橋市は、現在「市内に10路線31駅」という網の目のような鉄道ネットワークが設定されており、人員並びに物資の輸送に優れた特性を持っているのです。
この充実した鉄道ネットワークを実感できる例として挙げられるのが「西船橋駅・船橋駅は、それぞれ駅利用者数が県内1位と2位のワンツーフィニッシュ状態である」という点です。
優れた商業地域として成り立つためには、豊富な商品と購入するお客さんの数がそれぞれ多くなければいけませんが、この船橋にはご覧のように必要な条件が十分すぎるほどそろっているため、これだけの結果につながっているのです。
おそらく、この他にも「船橋を船橋たらしめている理由」はいくつもあるでしょうが、ネットショッピングの波が徐々にシェアを拡大している昨今の状況もあり、数年後にはこの状況が一変している可能性もあるかもしれません。
■まとめ:「船橋支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!
さて、今回はグリーン警備保障の支社がある街の中から、沢山の人で溢れそうな船橋の歴史編をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?
より地域に密着した形で、メインとなる交通誘導警備を数多く任せていただけるような信頼を得るために、これからも支社・営業所のある街に関する情報発信を進めていきたいと思っています。
こちらの記事を見て、地元船橋をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?