『蒲田の歴史編』-「支社・タウン情報」
2023年8月3日
もうすっかりおなじみとなった、グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報、今回は蒲田の歴史編と題して、大田区の中心地としても機能している蒲田の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。
今回も、かつては「東京市蒲田区」という「一国の主」という存在であった蒲田の歴史についてバッチリ掘り下げていきますので、どうぞお楽しみに!
では、さっそく最初のセクションから!
■当時は一面の「沼地」?蒲田の地名の由来とは?
当タウン情報・歴史編ではもはやおなじみとなった感のある「地名の由来」ですが、実は今回の蒲田の場合、まさに「諸説あり」という言葉がピッタリなほどさまざまな説があるようです。
以下に、その中から有力な説をまとめてみましたので、まずはご一読を。
【「蒲池」と呼ばれる乾燥地が転じたという説】
詳しい説明は後述しますが、元々この地は多くが「沼地」だったのだそうで、そのままでは生活面での利用が難しかったせいもあり、溝を掘ることで水分を逃した「乾燥地」へと改善されるようになったそうです。
このような地帯を「蒲池」と呼んでいたのだそうですが、それが長年続いたことで「蒲田」へと転じた、というのが有力な説のひとつとなっています。
【「泥深い田地」を表す「蒲田」が定着したという説】
前述した通り、この地がかつて「沼地」であったことはほぼ定説となっているのですが、そもそも泥深い田地のことを「蒲田」と呼ぶ風習があり、それがそのまま広範囲に定着したことでそのまま地名となったのだそうです。
これらの説のように、この地はかつて
・沼地であったこと
・田を利用した農業が盛んであったこと
・沼地を改善するなり、そのまま生かしたりして運用していたこと
という特徴を持っていたことは、もはや疑う必要はないかもしれません。
【アイヌ語の「カマタ」が直接由来となった説】
さらにそれらの説を裏付ける話として、北海道を中心に伝統的に根付いている「アイヌ民族」の言語「アイヌ語」における「カマタ」が地名の由来になっているという一風変わった話もあります。
そして、この「カマタ」の意味なのですが、実は「飛び越えた場所・土地」の他に「沼地の中の島」という意味もあるそうなのですが、最初の説を拡大解釈すれば「蒲池として乾燥地化した部分が、島のように見えた」のかもしれないとは考えられないでしょうか?
では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。
■かつては地方行政を束ねる「蒲田郷」でした
地名の由来はさておき、この「蒲田」という地名は、かなり昔から定着していたものであったと考えられています。
そのルーツは鎌倉時代に幕府に仕えた「武蔵江戸氏」という御家人の一族だったと言われていますが、この「江戸氏」から見て支流筋にあたる「蒲田氏」であり、他との混同を防ぐために「江戸蒲田氏」と呼ばれることが多いそうです。
当然、その所領は「蒲田」と呼ばれるようになるのですが、周辺一帯を支配していた当時の武家は、所領の地名をそのまま名字にする場合と、逆に一族の名字が所領の地名になる場合の二通りの例があります。
この「蒲田氏」の場合、文献などの情報が正しければ、支配する前から「蒲田」と呼ばれていた地であったことが明白となるため、前者となるのだそうです。
そう言い切れる理由としては、奈良時代に成立した「律令制度」にあるのですが、715年にこの律令制が改正され、地域の自治・行政を行う最小単位「郷」が登場します。
ここまで来れば、カンの良い方はお気づきかもしれませんが、この地域はかつて「蒲田郷」と呼ばれていましたので、地名のほうが先と断定できるのです。
■一面の沼地から一面の「焦土」へ、戦後復興の筆頭格となった蒲田の発展
時代は下り、元々一面の沼地であった「蒲田」も徐々に人口が増え、大正時代から昭和初期にかけては繁華街としての発展を遂げていくのですが、終戦間際となった1945年(昭和20年)4月の空襲において、現在の「蒲田駅」を中心とした市街地は見渡す限りの焦土と化してしまいます。
長い歴史の中で積み上げてきた街としての発展が、あっという間に焦土と化してしまったのですから、地元住民のショックには計り知れないものがあったでしょう。
しかし、地元住民をはじめ、さまざまな人々の尽力・努力によって、戦後の復興期にはかつての勢いを凌ぐほどの発展を遂げ、商業地としてだけでなく住宅地としても有数の地域として知られるようになっています。
この復活の理由ですが、復興期を迎える直前の1947年(昭和22年)には、それまで独立区同士だった「大森区」と合併し、新たに「大田区」としてスタートを切っていたため、という説や、首都圏の空の玄関口となる「羽田空港」から近い場所であるために、発展しやすかったという説、はたまた「大田区」行政の中心地として主要な行政施設が集中していたという説など、さまざまな説があります。
とはいえ、前述のような経緯があったためか、一時期は地元住民の感情がエスカレートしてしまい、1969年(昭和44年)には蒲田駅周辺が、当時の「佐藤栄作首相」の訪米を阻止する目的の左翼デモ隊と機動隊が衝突する事件の舞台となってしまったこともあったそうです。
もちろん、この流れが今でも続いているわけではありませんが、商業地かつ繁華街でもある「蒲田」は、現在でも治安面で少々不安な所があるそうで、ごく最近の2019年(令和元年)には「蒲田五丁目」が「暴力団排除特別強化地域」に指定されており、違反者や団体には厳しい罰則が設けられています。
■大田区の中心地としての役割を果たし続ける蒲田
さて、今回最後のセクションでは、急速な発展を遂げてきた「蒲田」の役割のひとつである「大田区行政の中心地」という点について、さらなる考察・解説を進めていきましょう。
なぜ「蒲田」が「大田区行政の中心地」と考えられているのか、その理由としては、やはり「行政関連施設がこの地域に集約されている」ためでしょう。(一例として、駅から目と鼻の先に「大田区役所」が存在している)
さらにこの「大田区役所」ですが「蒲田駅」前の土地勘がある方ならごぞんじの通り、なんと「駅施設内から直接アクセスが可能」となっており、雨の日でも濡れずに区役所を利用できるのです。
街の中心である駅ですが、基本的には民間の組織である鉄道会社、または関連する企業の都合によってその形が成り立ちます。
対して、国や地方自治体が運営する行政施設は、街づくりには欠かせない要素のひとつですが、この「蒲田」のようなケースは「官民一体となって街づくりを行っている」という図式を証明するものでもあるのです。
おそらく、この他にも「蒲田が大田区の中心地としてみなせる実例」はいくつもあるでしょうが、これだけ民間と行政の密接な関係性がうかがえる例はなかなかないでしょうし、もっとわかりにくい例ばかりになってしまいそうですね。
■まとめ:「蒲田支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!
さて、今回はグリーン警備保障の支社がある街の中から、まるで苦労人のような紆余曲折を持つ蒲田の歴史編をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?
より地域に密着した形で、メインとなる交通誘導警備を数多く任せていただけるような信頼を得るために、これからも支社・営業所のある街に関する情報発信を進めていきたいと思っています。
こちらの記事を見て、地元蒲田をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?