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『八王子の歴史編』-「支社・タウン情報」

2024年6月4日

グリーン警備保障の支社がある街のタウン情報、今回は八王子の歴史編と題して、新規支社オープンした八王子の歴史に関する話題をお送りしたいと思います。

八王子は皆さんもごぞんじの通り、街として長い歴史を持ち、さまざまな史跡や建造物、エピソードを持つ興味深い土地ですので、どうぞお楽しみに!

では、さっそく最初のセクションから!

 

■古くから人々が住み着いていた?『先史時代の八王子』

 

 

東京都の中でも、豊かな自然環境と大規模な都市としての顔を併せ持つ八王子。

その歴史のはじまりは、はるか昔の有史以前までさかのぼります。

 

しかし、後の「歴史時代」とは異なり、文書や文字などによる記録がない有史以前は、具体的な遺跡や遺構などからでなければ、人々がどのような暮らしを送っていたか確かめる術はありません。

ただ八王子の場合、市内全域で有史以前の遺跡が数多く点在しており、それらの保存状態なども良いことから、少なくとも縄文時代中期辺りには多くの人々が、集落を構えて暮らしていたことがわかっています。

 

ですが、これらの痕跡は、主に市内やお隣の日野市を流れる「浅川」やその支流に集中しており、広大な川からの豊かな水の恩恵を求めて人々が集まってきた、と考えられているようです。

 

また、1964 年(昭和39 年)に発掘された「宇津木向原遺跡」からは、考古学的に価値が高いとされている「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」も出土しており、弥生時代の八王子ではすでに「人々の身分格差」があったことも判明しているそうです。
(方形周溝墓には、他に比べ身分や位の高い個人が葬られていると考えられているため)

そのような「身分差」がある人々が暮らす八王子では、古代になると必然的に日本史の授業などでもおなじみの「豪族(土地などの支配権を持つ一族)」なども登場していた様で、それらを全国的に束ねていた「ヤマト王権(大和政権とも)」にもいち早く組み込まれていた、という説があります。

 

おそらく、前述の「浅川」などから得られる水の恩恵を最大限に利用し、弥生時代ごろからコメの栽培が盛んになっていたと考えられ、川や山地からさまざまな食料を得られやすい環境が実現していたのでしょう。

そのような状況であれば、遠く離れた奈良周辺を中心に広がっていった、と考えられている「ヤマト王権」の影響を受けないわけがないとも言えますね。

では、そろそろ次のセクションにまいりましょう。

 

■平安からも各時代を駆け抜けてきた『八王子』

 

 

その後、こちらも日本史の授業でおなじみ「律令制度」に組み込まれた八王子は、当時の「武蔵国多麻郡(現在の「多摩郡」)」に編入したと考えられており、平安時代となる916 年には「八王子神社」が建立されています。

この「八王子」という地名は、日本神話における「スサノオ」と同一視されている、仏教の守護神「牛頭天王」の8 人の子を指しています。

ですので、地名の由来としては、彼らを祀っているこの「八王子神社」が由来と考えて間違いなさそうです。

 

この頃、現在の八王子市横山町にもその名を残す「横山氏」によって、周辺地域が広く支配されるようになったと考えられているのですが、鎌倉時代に入ってからはその支配体制が揺らいでいき、最終的には「大江氏」の重臣であった「長井氏」や、有名な執権「北条氏」がこの地を支配したと言われています。

 

室町時代に入ると、この地の支配や管理は「大石氏」が務めるようになっていきましたが、戦乱の世になった1569 年には前述の「北条氏」に対して、皆さんごぞんじの超有名武将「武田信玄」による「小田原攻め」の一環として「八王子」が戦場となってしまいます。
(小田原攻めのためには八王子を通過する必要があった)

ただ、この戦いでは、守備側の北条氏が敗北するのですが、小田原からの帰路信玄は八王子を占領することはなく、そのまま甲斐国に戻っていったため、後に「北条氏照」が八王子城を築城し、自身や一族の本拠地としています。

 

しかし、安土桃山時代末期の1590 年、こちらも有名な天下人である「豊臣秀吉」率いる軍勢が、城主の氏照不在(家臣とともに小田原に駆けつけていたのだそう)の隙をついて八王子城を攻撃、最終的には氏照や兄の氏政は切腹することになります。

 

■なんと幕府の直轄領!『江戸時代以降の八王子』

 

 

このように「八王子城合戦」で敗北した北条氏ですが、彼らに変わって新しい領主となったのは、こちらもごぞんじの「徳川家康」。

そして、この家康配下の、後に「八王子千人同心」と呼ばれるようになる集団が八王子を統治するようになったのですが、江戸時代に入ると家康によって、八王子城は「廃城」となってしまいました。

 

ここから町や都市づくりに定評のある徳川氏や代官頭となった「大久保長安」による開発が進み、現在に残る「甲州街道」に沿う形で宿場街が形成され、八王子は発展を遂げるようになります。

この開発以前から、八王子は江戸幕府によって「直轄領」として統治されるよう(このために八王子城は廃城になった)になりますが、江戸から近いこともあり、一定の統治者による一元支配はさせないようにしていたそうです。
(統治者が力をつけて幕府に対抗する勢力を持つことを恐れた?)

 

幸いだったのは、明治維新の際に、前述の「八王子千人同心」を祖とする「八王子千人隊」が新政府側へ降伏したため、八王子では大きな戦いが起きなかったことでしょう。

 

■いち早く「戦後復興」を果たしたベッドタウン『八王子』

 

維新後の八王子は、早くから盛んになっていた「生糸貿易」の中継地点として栄えるようになりましたが、後にこの「生糸」を「横浜港」に運搬するために、当時は「私鉄」として登場したのが、ごぞんじの方も多い「JR 横浜線」です。

それ以前にも1889 年(明治22 年)には「甲武鉄道」が開通していますが、こちらは現在の「JR 中央本線」のルーツにあたり、かなり早い段階で八王子には近代的な文化や産業が流れ込むことになります。

 

その勢いのまま、八王子はさらに発展を遂げることになりますが、この流れに大きなブレーキをかけたのが、他ならぬ「太平洋戦争」でした。

多摩地域の中でも大きな発展を遂げ、軍需工場なども多かった八王子は、米軍本土空襲の際の目標として狙われることになります。

その勢いがどれほど凄かったかというと、1945 年8 月の八王子空襲では、当時の市街地の約「80%」にあたる「14,000 戸」の建物が焼失したほどです。

ただ、このような被害では、戦後の復興も難しいのでは?と考えた方も多いでしょうが、戦後の衣料不足を解消するため、八王子では織物産業が発展するに従い、後の高度成長期には好景気を迎えるようになります。

また、1960 年代中盤頃からは「多摩ニュータウン」計画がスタートし、都心のベッドタウンとしての役割が求められるようになった八王子には、多くの人々が移住するようになっていきました。

 

■まとめ:「八王子支社」を有する「グリーン警備保障」の仕事を始めよう!

 

さて、今回は「グリーン警備保障の支社がある街」の中から「八王子の歴史編」をお送りしましたが、皆さんいかがでしたか?

今回の八王子支社ももちろんのこと、私たちグリーン警備保障では、数多くの支社・営業所で幅広く警備の仕事を取り扱っております。
より「地域」に密着した形で、メインとなる「交通誘導警備」を数多く任せていただけるような「信頼」を得るために、「支社のある街」に関する情報発信を進めていきたいと思っています。

こちらの記事を見て、地元「八王子」をはじめとする、さまざまなエリアの警備のお仕事に興味の湧いた方は、未経験者でも働きやすい、グリーン警備保障へのご応募を検討してみてはいかがでしょうか?

 

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